20180529

忙しさにかまける。

 

学部にいた時にはあれだけ読んでいた小説をほとんど読めなくなってしまった。このまま、あの名作たちを読めないまま時が過ぎていくのではというような悲しみが時々押し寄せる。悲観しすぎではあろうけど。

 

その一方で、論文と専門書を読む機会は何倍にも増えた。

 

学部の頃は広く浅く、大学院では深くふかく。そのようななかで学んだことも多いが、しかし自分の実績欄を埋めようという段になると、学部の頃からもっと専門的にやっていれば…という気分になる。

 

あぁしかし、どうなのだろう。とりあえず、『カラマーゾフの兄弟』と『失われた時を求めて』を読了するだけのまとまった時間よ!と思う自分もいる。モラトリアム。

 

北山修氏が仰っておられたが、現代はモラトリアムがなかなか成立しにくいよう。北山氏は医学部在学中に音楽活動などに携わっておられたこともあり、講演の際に海外で生活するなり音楽に没頭するなりの時間を青年に勧めている。しかし、その反応としては『そんなことする時間はない』という反応が多いらしい。

 

北山氏の時代には電車を乗り過ごしても、次の電車に乗ればいいという感覚があった。今は一度電車を乗り過ごすと二度と乗れないのではという不安が追い立てる、そう氏は仰っておられた。

 

青年期の延長という割には、本来は自身を見つめなおすモラトリアムの時間が失われているというのはなかなかに皮肉である。

 

まぁ巨匠の言葉を借りて大風呂敷を広げてはみたが、言いたいことは自分も海外行ったり音楽や文学に没頭してみてえなあというあくまで個人的欲求を超えないところが、逆に自身のモラトリアム段階を晒しているということか。はやく大人になりたいものである。