20160626

嫌いな食べ物ってありますか?

 

と言われると、

 

パクチーは苦手ですね

 

と答えている。

 

昔はあんなにあった好き嫌いはいつの間になくなっていったんだろう。

 

ピーマンも茄子も牡蠣も食べられるようになった(というか、もはや自分で買ったりするくらい好きになった)。

 

昔は特に茄子が嫌いで、少し口に含んでは吐き出しそうになる僕を、両親が『こんなに美味しいのに』と言いながらパクパク食べていた。

 

大人になるにつれて、味覚も変化していったのだろうか。

 

それとも、茄子にあった苦手な思い出が少しずつ消えていったのだろうか。

 

パクチーを初めて食べたのは2年くらい前である。

 

女の子をデートに誘った時に『食べられないものある?』と聞いたら『パクチー』と言われた。

 

その時僕はパクチーなんていうものを知らなかったから、どんなものなのだろうと訝しんだけれど、デートの方が楽しみだったのでそんなことはすぐに頭からなくなった。

 

ちなみにその女の子には3回目のデートでフラれた。

 

そのあと、職場の上司の方と二次会で中華料理店に行ったことがあった。

 

その時に出てきたのがパクチーの炒め物だった。

 

これがパクチーなんだ…と思って口に含むと、薬のような青くさい苦味。

 

マズい、とまでは言わないが、美味しくない。

 

なんとなく、それから嫌いな食べ物は?と聞かれるとパクチーと言うようになった。

 

けど、それから2年。教授と行った中華料理店で小籠包の中にパクチーが入っていた。

 

あっパクチーだとすぐに気づいたが、驚いたのはそのパクチーがとても美味しく感じられたのだ。

 

2年。考えてみるとやはりそれなりに長い年月が経っているのかもしれない。そんなことを考えながら、これも昔は苦手だったビールを飲みながら思った。

 

あの時、なんであんなに苦手に感じられたのかもはや覚えていないのだ。

 

あの時フラれた女の子の顔もろくに覚えていないくらいなのだから。

20180225

チョコミント

 

僕はチョコミントを食べたことがない。

 

食べたことないくせに失礼だが、なんだか美味しくなさそうな気がする。失礼だが。

 

仲のいい友達に聞いてみたことがある。

 

『ねえ、チョコミントって食べたことある?』

 

『あるよ』

 

『美味しい?』

 

『うーん、そんなに』

 

『そうなん? 好きな食べ物ランキングなら何と同ランクなの?』

 

『歯磨き粉かな』

 

なんで食べ物ランキングに歯磨き粉が入っているのだろう。

 

そんなわけで、まだ僕はチョコミントを試せずにいる。コンビニのアイス売り場を見るたびに、チョコミントをみて思い悩む自分がいる。

 

けれど、そういう時に結局バニラを選ぶ人間なのだ、僕は。

 

チョコミント、いったいどんな味なんだろう。

20180624

地震から一週間たつ。

 

余震が何度かあったものの、自分の周りでは大した怪我をした人もおらず、胸をなでおろしている。

 

身近で一番大きな怪我をした人だと、教員の奥さんが地震で割れたコップを踏んでしまって足裏をひどく切ってしまったというのが一番だった。

 

二番目は、同回生の女の子。家でベットに寝ている時に地震に襲われたらしい。目は覚めているが横になっている時だったとのこと。

 

その日は彼氏が家に泊まりにきていたらしく、彼氏さんは洗面所の方にいたらしいが、地震が来た瞬間にベットに寝ている彼女に覆いかぶさったとのこと。上から何か落ちてくるのから守ろうとしたらしい。

 

男気溢れる行動だ。『その時に彼氏に蹴られた脛がめちゃくちゃ痛い』と話す彼女の表情も怒っているなんてことはなく、とても嬉しそうであった。

 

その彼氏にすげえなと思う一方で、その話を聞いた途端、『いや、俺だってそれくらい…』と思う自分もいた。

 

そのことに自分が気づいた瞬間になんと馬鹿らしいことを考えているのだろうと思った。本末転倒である。

 

だって、自分にはまずそういう相手がいないのだ。

20180622

「写真は思い出の栞ですね」

 

という言葉をたしか『よつばと』で風香ちゃんがドヤ顔で言っていた気がする。

 

そこに竹一がいれば「ワザ、ワザ」と話しかけられること必至の狙いすぎた発言ではあるが、確かにふと携帯の画像フォルダを眺めてみると、ああこんなことあったなあと懐かしく思う。

 

そうだった、こんな時あったな。これはあそこで撮った風景だ。誰々がまだいた頃だった。この写真はあいつが撮ったんだ。そのあと、そうだ、あの店でさあ……。

 

という風に色んな思い出が写真を見ると思い出されるものだ。

 

 

しかしその一方で、全く読んでいない本に挟まれた栞はそこに何かしらの意味を探ってしまう。

 

それは栞というよりは、古本屋でふと手に取った本に引かれたアンダーラインやドッグイヤーのようなものかもしれない。なんで前の持ち主はここに注目したのだろう。それが僕の心の琴線にはあまり響かない文であればなおさらである。

 

 

いつのことだったか。僕がまだ二十歳になりたてかそれくらいの頃だったと思う。購入した古本に挟まれていたのは、栞ではなく、それこそ写真そのものであった。

 

どういった写真だったか、細部まで覚えているわけではない。男性が2人写っていた。一人は構図右下の方にいて、髪は少し長めの茶髪を整髪剤で整えていた。服は少し濁った緑色で、写っているのは上半身だけだった。もう一人は逆に下半身しか見えない。正直、顔も分からないからかもしれないがこの男性の方はほとんど何も記憶がない。薄い色のパンツを履いていたことは覚えているのだが。

 

背景から見るに室内であろうということは分かる。床が映っていた。角度的に撮影者は上から撮っている。2階から1階へレンズを向けているような構図だ。なにか青く細長い絨毯が、バージンロードのように引かれていたことを覚えている。

 

僕が少し不思議に思ったのは、撮影者は何を思ってこの写真を撮ったのだろうかということだった。2人の男性を撮ったものではないと思った。なぜなら、その両名ともその構図の中央には位置していなかったからだ。そして男性のどちらもカメラの方を向いていない。右下の男性は自身の左側を視線で追っていたし、左上の男性は後姿の下半身しか映っていない。床材や絨毯から体育館のようなところを思い浮かべたが、スポーツをするような服装ではない。二人の服装がカジュアルなことから何かしらの式場や催し会場でもなさそうだ。

 

僕が一番首をかしげたのは、この写真には全く主役がいないことなのだ。

 

自分の写真を見てみても、その写真には何かしらの主役が存在する。たいていは友達や家族などの人物。人物が映っていないこともあるが、その時はたいてい夕暮れなどの風景全体が主役になっている。

 

けど、その写真には主役がいない。わざわざカメラを取り出して、シャッターを押し、あまつさえそれを現像する必要のあるようなものはなにも写っていないのだ。

 

僕はその写真を結局どうしたのか覚えていない。不思議な写真だなあとおもって、その辺に置いていたはずだ。けれど、そのまま引っ越し作業をしているうちにどこかに行ってしまった。多分、知らず知らずのうちに捨ててしまったのだと思う。

 

いま、思い直しても不思議なのだ。あれは一体、どんな本に挟まれた栞だったのだろう。そしてそこにその栞を挟んだのは一体なんでだったのだろう。

20180621

仕事くれ

 

地震の影響はまだ続いているようである。テレビを見ると、高槻市などを中心とした大阪の北部では未だガスの供給が止まっているようだ。

 

その一方、余震の不安がある一週間はもうすぐ過ぎようとしており、余震頻度もだいぶ落ち着いてきた。安心していいわけではないが、ガスの供給も復旧へと向かっている。

 

そのような、非日常から日常へと移ろうとしているいま、微妙なズレを感じざるを得ない。

 

というのが、今の自分の生活はほぼ日常へと戻っているのに関わらず、周りは未だ非日常的でかるということだ。

 

いや、端的に言おう。仕事がないのである。

 

職場がほとんどここ一週間は仕事を休止している。その一方で、僕はもう普通の日常に戻っており毎日暇である。

 

この一週間は7日中5日仕事がなくなった。あんなに休みくれといっていたのにも関わらず申し訳ないが暇すぎる。毎日を持て余し、そのせいか生活リズムが乱れようとしている。

 

2週間前の僕は『3ヶ月くらい休みくれ』と恥も外聞もなく叫んでいたが、今の僕はフルタイムで働ける仕事をくれという感じである。

 

わけもなく喫茶店により、急いで読む必要のない本を読み、暇をつぶすようにランニングに興じる。

 

なかなかに天邪鬼で申し訳ない。しかもどうせ日常に戻れば休みくれと騒ぎ出すに決まっているのだ。

 

どうか何か僕に仕事をくれ。僕が一畳あたりの畳の目を数え始める前に。

20180620

もう6月も20日を過ぎた。

 

いつの間にか時間は経っており、その中で自分が一体何をしてきたのかと思うと、考え込んでしまうこともある。

 

昔、一緒に仕事をしていた仲間はいつの間にか遠いところへ行っている。そういったことに囚われてしまわないわけではない。

 

スラムダンクのミッチーが泣いた理由が分かるのである。なぜあんな無駄な時間をと思う時もある。

 

けど、そういった一方であの時間がなければ今の自分には決してなり得なかったようにも感じる。

 

後悔とは本当に先に立たないものである。

 

そう思いながら、今夜も風呂上がりにテレビを見ながら時間を食いつぶすのだ。