20160610

村上春樹の小説の主人公がスパゲッティを茹でていることには意味がある。

 

日々を丁寧に生きるとは、スパゲッティを茹でている時間をスパゲッティを茹でる時間として過ごすことなのである。

 

それは決してその時間で電話を取ったり風呂掃除をしたり洗濯物を干したりしないということである。

 

スパゲッティを茹でる時間をスパゲッティを茹でる時間として過ごすのはとても贅沢なことなのだと思う。

 

それが日々を丁寧に生きるということなのだろうと思う。

 

それに対して、僕の今までの生活は例えるならスパゲッティを茹でながら電話をして洗濯機を回して風呂掃除を始めるような生活である。

 

というか、実際にしてた。

 

というか、まだしてる。

 

そうしていると、スパゲッティを茹でることも洗濯機を回すことも風呂掃除も電話すらも、効率的に終わらせるべきタスクのように感じてくるのである。

 

それは、とてももったいないことだと思う。それは風呂掃除や電話や洗濯やスパゲッティを茹でることの楽しさ、おもしろさを面倒臭さと一緒に捨ててしまうことなのだから。

 

日々の生活には、それぞれ日々の思想が入る。その生活の思想を十全に楽しむことは日々の面倒臭さを捨象することと相反することがある。

 

その面倒臭さを受け止め、効率性ではなく目の前の物事をしかと受け止めること。それが日々の思想を受け止めるということであり、とても贅沢なことなのだと僕は思う。

 

なので、僕は今日、スパゲッティを茹でた。その間、洗濯をしたり風呂掃除をしたり電話をかけたりはしなかった。ずっと沸き立つ鍋を見つめていた。スパゲッティは普段より美味しい気がした。その後に洗濯や風呂掃除をしていたら仕事には遅刻した。なんでや。